地久節とは

地久節とは

地久節って何?

地久節

地久節をご存じだろうか。
おそらくほとんどの人は初めて聞いたという人が多いだろうし、読み方もよくわからないかもしれない。
これは「ちきゅうせつ」といい、昭和時代の第二次世界大戦までの祝日のうちの一つで、皇后(天皇の正妻)の誕生日を祝う日である。

1931年、大日本連合婦人会の結成とともに地久節が「母の日」に定められ、戦前昭和期を通じて祝われた。
各時代の皇后誕生日は以下の通り。

明治…昭憲皇太子 1868~1911 5月9日
大正…貞明皇后 1912~1926 6月25日
昭和…香淳皇后 1927~1988 3月6日
平成…皇后美智子 1989~   10月20日

ちなみに天皇誕生日は天長節といい、こちらは現在でも国民の休日として定められているのはご存じの通り。
だがその一方で地久節は現在では国民の休日としては定められていない。
詳しくは後述するが、戦後に母の日がアメリカから伝わると、地久節は皇后誕生日と改称され、国民の祝日からは廃止された(また天長節も天皇誕生日と改称されている)。
これにはGHQの戦後改革が関係しているともいわれているが詳しいことは不明である。

母の日

このように現在の母の日のもととなったのが地久節であるが、実は大日本連合婦人会ができるもっと前、アメリカで母の日ができるきっかけとなった出来事が起こったのをご存じだろうか。
南北戦争終結後の1870年、女性参政権運動家、「ジュリア・ウォード・ハウ」が夫や子供を戦場に送ることを今後絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」を発したことがきっかけである。
この母の日宣言は、南北戦争中にアン・ジャービスが負傷兵の衛星情愛を改善させるために地域の女性を終結させた活動にヒントを得たもので、当時から「母の仕事の日」と称して、敵味方問わず負傷兵の介護をしていた。
それに見習い、ジュリアも母の日宣言を行っていたのだが、当時は普及しなかった。
母の日が普及したのはジャービスの死後、1907年のことである。
ジャービスの娘のアンナがなき母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会でジャービスの命日である5月8日を記念日とし、白いカーネーションを贈り、これがのちに母の日として普及した。
このように「母の日」という名前はジュリアが、カーネーションを贈るという文化はジャービスの娘のアンナが創り上げたということになる。
ご存じの通り、この文化は日本でも広まった。
1949年ごろからアメリカに習って5月の第2日曜日にカーネーションを贈るようになったり、現在でもこのカーネーションを贈る文化は残っている。
ちなみにジャービスの命日である5月8日と、明治時代の皇后である昭憲皇太子の誕生日が5月9日と1日違いであるが、これらは全くの偶然である。

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